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アユサワ時計店
哀しみの雲煙
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昼過ぎ2時ごろであったろうか、
ドアーの中ほどを開けてお婆さんが顔を覗かせた。

「時計屋さん、うちのタケシ死んじゃったわよ。
親を置いて、死んじゃうなんて、全く親不幸ものなんだから」
さて、そう言われても、まるで見当が付かない。

タケシ、タケシ、たけしと頭をめぐらせても、
まるで脳裡には浮んでこず、お婆さんの顔さえも覚えがない。
かといって、どちら様ですかと尋ねるわけにも行かず、
「それはそれは、お力おとしですね」などと曖昧な返事をして
お茶を濁していたのだが、ドアーを閉める前に
「お墓参りに来たんで、時計屋さんに寄ったんだけど」
この一言で10燭光の電球がポツリと灯り、
間名田君(仮称)のニコニコした顔が浮かび上がってきた。

それにしても、母親の変わりようはなんとしたことか、
堂々と太った身体は痩せて、白髪の多いこと、
歳月は人を変えると言うが、まるで別人のそれである。

間名田君は二十歳頃までは、ご近所にお住まいであった。
私共にも良く顔を出しては他愛のない事をおしゃべりしていた。
兎に角、彼はいつ遭ってもニコニコして笑顔を振り撒く。
知覚に不自由さを抱えて居た。

中学に入り順調に学校生活を楽しんでいた時に、
小型のトラックと接触し道路に倒れたという。
其の時は、気がつかなかったのだが、やがて言語に障害が見られ、
右利きであるのに右手では文字を書けなくなった。
それも少しづつ少しづつ進行したものだから、親も気がつかず、
気づいたときには、かなり難しい状況とはなったのだが、
やがて病も落ち着き学校を卒業するや福祉事務所で働くようになった。
それ以来、引越しをして頻繁に顔を見ることはなくなったのだが、
墓参りの時は母親と連れて顔を覗かせてくれていた。
間名田君、そろそろ五十の声をきいたのだろうか?

息子の容態はどうであれ、一人息子をなくした母親の失意は
想像を絶するにちがいない。
残された親は、何を頼りに、何を生きがいにして暮らせねばならぬのか。
自分の頭の上の蝿を追えないくせに、他人様の心配もなかろうにと
お叱りをうけそうだが、ま、それはそれ
哀しみの雲煙は,いつまでも細く長くユラリと漂いを見せる。

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東京新聞のコラム「筆洗」の書き出しは、
食事について筆が進んでいた。

【年配の仕事仲間がつぶやく。
「離婚だけはしちゃダメだよ。
大晦日(おおみそか)がつらかった」。
妻との生活に悩む主人公の男がまぜっかえす。
「気楽でいいじゃないですか。
バツイチかっこいいです」。

仕事仲間がしみじみ語る。
「社員さんねえ、ふたりで食べる食事はご飯だけど、
ひとりで食べる食事はエサだ」。
テレビドラマの「最高の離婚」(脚本・坂元裕二さん、
二〇一三年)にこんな場面がある

▼「食事」よりも机に向かい「エサ」をむさぼる方が大幅に上回る
身の上には心に堪(こた)えるせりふである

▼独りで食事をする「孤食」に関連する気になるデータもある。
東京大学の栄養疫学の研究チームによると「孤食」の
高齢者は一緒に食事をする人がいる高齢者に比べて、
うつになりやすい傾向があるという

▼独り暮らしの場合、女性の孤食はうつの可能性が一・四倍、
男性は二・七倍になる。
孤食は知らず知らずのうちに心を重くするものらしい

▼週末は、ハロウィーンだった。
深夜の地下鉄。
仮装した陽気な若者三人が隣に座った。
正直に言う。
腹も立った。
理由は分かっている。
嫉妬と羨望(せんぼう)だろう。
仮装などごめんだが、この人たちは「エサ」ではなく、
「食事」を共にする仲間がいる。
罪のないまぶしさが、こちら側には孤独の陰もこしらえる

▼仲間を探すしかないか。
「孤食」同士が集まれば、それは、立派な「食事」となる】。

今の私の食事は、とうてい食事等といえるものではなく、
餌そのものである。
食欲は日増しに薄れ、食べたいものがない。
テレビのグルメ番組をみても、食欲など、そよとも動かない。

それもこれも、癌の作用がもたらすものであるが、
三度の食事時間が苦痛でならない。
食べるのが苦痛になるとは思っても見なかったことである。

癌との闘いは食べる事に尽きると先輩諸兄から励ましを
受けるのだが、とてもとても之を乗りきるのは
大変なことだと頭を抱える。
私の手元には常にハチミツ、紅茶、カステラと備えてはあるのだが、
まるでプイと顔を背けてしまう。
癌との闘いはこういうものなのかと辛い学習体験をしている。
嗚呼!どこまでつづくぬかるみぞ!


地域ってなあに?
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どこの商店街にもある中華屋さんが姿を消しつつあるという。
ここでいう中華屋さんとはラーメン専門店のそれではなく、
餃子やレバニラ炒め、中華丼や酢豚を出すお店で、
後を次ぐ後継者が居らず、主人の高齢化と共に
鉄鍋を振るのがつらくなり、ついには店をたたんでしまうと
言うのが大きな理由だそうだ。

後継者が居なくてはお店も続けられず、
日本全国の商店街にあっては切実な問題となっている。
さりとて妙案があるわけでもなくシャツター通り商店街が
ドミノ倒しのように重なりを見せる。

私の周りを見渡しても、魚屋がなくなり、
四件あった中華屋さんもなくなった。
商店街は地域コミュケーションの核とあるべき存在だったのだが、
その地域でさえもマンションが林立し、
さっぱり住民の顔が見えなくなった。

なくなった店の代りにコンビニが暮らしの隙間を
埋めてはくれるのだが、そこには無機質な香りだけが立ち上り、
住民同士のふれあいなどなく、生活圏ではあろうが、
とても地域と呼べるものではない。
大きな落し物をしているのは承知しているのだが、
さてさて、これからの社会はどうなってゆくのだろう!